安倍吉俊氏のnoteに非常に感銘を受けたという話
はてブでかなり話題になっていたこちらのnote。
私は10代の終わりに、わりと始まったばかり?のYouTubeでlainに強く惹きつけられ、その後安倍吉俊作品はほとんど追ってきている。絵がまず好きだし、灰羽連盟などにあらわれている世界観も好きだ。
でもこのnoteは、安倍氏がどんな人でどんな絵を描くのか知らなくても感銘を受けただろうと思う。
村上春樹の1Q84で、タマルが児童養護施設にいた頃に出会ったネズミを彫る少年の話を読んだときのような気持ちになった。
noteに書かれているのがどんな話かというと、
美術予備校に通っていた阿部氏が、絵を描いている最中に自分の絵を客観的に見ることができていないことに気づく。それで、自分の絵をある程度客観的に見ることができるようになって、だめなところを最中に発見できるようになったら、今度は「嫌だな、直したくないな」という気持ちが浮かんで、それを支持するように、直さなくても大丈夫である様々な理由を内なる自分が語りかけてくることに気づく。そうして、
「人間は自分が傷つかないように常に現実を歪めて認識している」
ということを見いだしたとのこと。
一度描いた絵のだめなところを認めると傷つく。だめなら描き直さなきゃいけないけど、直したくない。本当はわかっているのに、自分が傷つかないようにそれに気づかないようにする防衛機構のようなものが働いて、結果的に、絵を描いている最中に自分の絵の悪いところに気づかないし、だから直すことができないのだと。
この症状に対する安倍氏の対処法は、左手にでかい練り消しをぐっと握って、嫌だな、という気持ちが浮かんで擁護する内なる声が湧いてきたら、何も考えずまっさきに絵を消せ、と自分に予め命令することだった。そしてその試みは成功し、伸び悩んでいた絵の技術もどんどん向上して東京藝大に合格するに至った。
耳の痛い話だった。
浪人中、苦手な数学と物理(理学部物理学科を志望していたのにおかしな話ではあるが)が全然伸びなかったが、もともとできた国語と英語と地学はさらにできるようになったということがあった。
数学と物理に時間を一番多く割くべきなのに、なんだかんだ理由をつけてもともとできる教科にも時間を割いてしまっていた。それは、できない教科ばかりやっていると自分はだめだということをずっと突きつけられて辛いから、できる教科をわざとやって、自分もできるんだぞ!とよしよししたかったからだと思う。
その他にも、自分が傷つかないように現実を歪めているエピソードには事欠かない。
結果的に受験は失敗したからさもありなんという感じである。
自分を傷つけられることに敏感で色々なことから逃げてきたという自覚があるので、それが今の精神的に未熟な自分を形作ったのだなぁと思う。
今こうして書いていると、
でも大学は結局物理学科には行けたし、苦手な数学と苦手だけど好きな物理に勉強と研究で何年間も向き合ってきたじゃないか、とか、
嫌な気持ちが湧き上がってくるのは自分に向いていないからで、むしろそれを知らせてくれるんだからいいじゃないかとか、
色々と内なる声が聞こえてくる。こういうことなんだなと思う。
この問題については、もう少し時間をかけて考えたい。(これも弱さなのかもしれない)